このコーナーでは、仕事場でおきるいろいろな出来事・・・

「クライアントの不平不満」「気になるあのお仕事のギャラ」「同業者のウラ話」などなど・・・

以外の、あんまりなまなましくないお話を、多分の脚色を交えて書いています。
      


2005.12.16 このコーナーとはうらはらに、充実した一年でした。

 いろいろあった2005年もあと2週間となりました。今年の、特に後半はわりとひんぱんにサイトの更新もできたのではないかと、自分では思っていたりするんですが、相も変わらずこのコーナーは放りっぱなしでしたね。いつも気にはしてるんですよ。困った時のナントカ頼みで、今回もまたまた本の話になりそうです。最後の方に仕事の話もチラリとしますので、本に興味のない方は以下数十行すっ飛ばしてください。

 年末といえば、ぼくにとっては『今年のベスト本・本』の季節。読書なんてものは自分が面白いかどうかが肝心で、あんまり他人の評価を気にしちゃいかんよなーとは思いつつも、本屋に行くたびチラチラのぞいて、自分の読んだ本がランク入りしてるのか、読みのがした面白本はないか、ついついチェックしてしまいます。
 おかげさまで仕事もだんだん順調になり、自由に使えるお金も少しは増えて、何がうれしいかと言うと、気になった新刊本をあまり悩まず買えるようになったことです。以前は巷で噂の本が文庫になるまでじっと我慢したり、古本屋をまわってしかも「カバー汚れあり」の本を選んだり、1000円以上の本を買うのは自分にとってはちょっとした贅沢でしたが、最近はタイトルと帯だけで判断して、評判も知らない新刊本をそこそこ買えるようになりました。俺様も出世したもんだ。その分大ハズレをつかむ可能性も大幅にアップしたものの、知らずに本屋さんに行ってお気に入りの作家さんの新刊を見つけたときに速攻で買えるというのは大きな喜びです。

 以前掲示板にも書きましたが、大学時代の先輩が40半ばになって読書に目覚めました。飲んでる時に話していて、実は意外に読書家だったとお互い初めて知った後輩3人で、彼を『正しい読書道(おもにミステリ)』へと導くべく、メールでの読書相談が始まりました。学生時代は絶対的権力を誇った先輩でしたが、生まれて初めて触れる世界に後輩のアドバイスを謙虚に聞き入れてくれる代わりとして、受け入れられなかった本には読後辛辣な書評を返してくれるのがドキドキハラハラで、ここ半年ほど断続的に続いています。
 ぼくがお薦めした佐々木譲の太平洋戦争三部作や浅田二郎の「蒼穹の昴」は気に入ってくれたものの、じゃあ目先を変えてこれはどうだと投入した恩田陸「夜のピクニック」は、これのどこを面白がれというのか全くわからん、と惨敗。国産ミステリ好きの後輩Bがまずは確実な所をと推薦した、桐野秋生「OUT」、奥田英朗「最悪」、宮部みゆき「火車」も残らず酷評された時には、そもそもこの人にはミステリ向かんのちゃうけーと(みんな関西人)、後輩3人パソコンの前で頭をかかえた事もありましたが、鯨統一郎の「邪馬台国はどこですか?」や、横山秀夫には好意的な反応を示すものだから、先輩の嗜好がミステリや、とこれは後輩Cのセリフです。年末はさすがに忙しくて読書量は落ちたそうですが、月曜日には週末に読んだ2,3冊の読書感想文が毎週のように届いていた時期もありましたから、来年も楽しみです。自分色に染めてやるぜ。後輩3人も微妙に読書傾向が違うので、おかげで僕もこれまで見向きもしなかった本に手をつける機会が持てました。
 そんなこんなで読書の幅が少しは広がった2005年。今年の一押しは、う〜ん、古川日出男の「ベルカ、吠えないのか?」と僅差で奥田英朗の「サウスバウンド」かなー?でも今読んでる張平の「十面埋伏」は、さらにその上を行きそうな予感がしています。

 さてそろそろ仕事の話を。とにかく本が読みたくて大学の文学部に進み、卒論テーマは社会言語学だったりした僕なのですが、大学卒業後デザイナーへの道を選んでから十数年間というもの、大学で身につけた知識が仕事の場で生きることはまったくありませんでした(編集者からあがってきた原稿のてにをはや句読点の位置をこっそり変えて入稿したことは何度かありましたが、それは内緒です)。デザイナーでなくとも、日本語の親族呼称の体系や助動詞の活用の歴史的変化が日常的に役に立つ職場は探すのが難しいと思います。
 ところが。そんな仕事がありました。お会いしたこともない編集者から突然電話で打診を受け、図工室全員で取り組んだそんな仕事が、このたびようやく完成し、来年の春頃から世の中に出回ります。紙工作の仕事ではないのでサイトに大々的にアップすることはないでしょうが、本好きのグラフィックデザイナーのぼくとしては(紙工作に振り向ける分は除けておいたうえで)全情熱を傾けた自信作ですので、また何らかの形で発表したいと思っています。我ながら思わせぶりで申し訳ないです。

 その仕事が一息ついて、ちょっと腑抜けていたのが今年の夏頃。スパンの長い仕事だっただけに、次の仕事のペースをちょっとつかみかねていた頃に、新しい方たちとの出会いが相次ぎました。世の中うまくできているなと思うのは、今回の出会いはみんな紙工作がらみだったこと。先日アップしたロボスクエアの作品もそうですが、来年はこれまでのシリーズに加えて、昔からやってみたかったあんな仕事や思ってもみなかったあんな仕事もできそうな予感です。こっちの方はサイトでもガンガン発表していきますから、どうぞ楽しみにしていてください。
  


2005.7.20 これってエコロジー的にはどうなんだろうか?

 前回はちょっと愚痴っぽくなってしまったなと反省しつつその続き。
 嫌々ながら買った液晶モニターがすこぶる具合が良いので、こちらもけっこうくたびれていたマスカワ君のモニターも買い換えました。表示はキレイだし机の上も広くなるし、液晶バンザイ!最新機器バンザイだぜ!! で、今回お役ごめんになったCRTモニターが2人分、加えてずいぶん前に買い換えてベランダで雨ざらしになっていた1台の、計3台のモニターを処分する必要が出てきました。
 去年の春から、大型家電を処分するには処理費用がかかることになりました。これはまぁご時世だから仕方ないですね。モニター3台だとまぁ1万円くらいはかかっちゃうのかなぁ、って話をしてたら、「そんなにかかるんならぼくが処分しちゃいますよ」と、マスカワ君。以前自宅のマックを捨てる時に、工具を使って全部バラバラにして分別して、全部不燃物で処理してしまった前歴があるそうです。「やれるもんならやってみな。お給料は払うから。」って冗談半分で言ってたら、3連休明けの火曜日ベランダには、すっかり破片と化した20インチモニター3台分の不燃ゴミが、45Lポリ袋2つに納まっていました。すごい!去年買い換えた自宅の冷蔵庫も頼めばよかった。
    


2005.7.17 マックユーザーならわかるはず

 清水の舞台から飛び降りるつもりでPOWER MAC 7200を購入してから十数年、今のG4で3代目のマックになりますが、幸運なことにこれまで深刻なトラブルには見舞われずにすんできました。でも確率的にいってこんなわきゃないんだよなーと思っていたら、先日来立て続けに被害に遭っています。ま、マックユーザーのよくある愚痴なんですが読んでやってください。
 まずは起動ディスクのトラブル。そもそもハードディスクを認識してくれないという、かなり致命的な症状です。やばい!進行中のデータも入っているのに。ネットで調べたりマニュアルを読み返したり人に聞いたり、あの手この手を使って一瞬つながった隙を見てデータを外付けハードディスクに移転、内蔵ハードディスクを取り替えてまずは事なきを得ました。ところがその2週間後にはその外付けハードディスクがクラッシュ。こちらも認識してくれません。前回学習したノウハウを持ってしてもこれは救出不能でした。2週間分のバックアップがなくなってしまいましたが、これはまぁ軽い損害でしょう。ヨドバシカメラでまたまたハードディスクをご購入。やれやれさぁこれで気分良く仕事再開と思っていたら、今度はモニターが壊れてしまいまい、またまたまたヨドバシカメラに走りました。初めて知ったんですが今じゃもうCRTのモニターって売ってないんですね。液晶モニターにはまだちょっと不信感を抱いていたんですが、ないものは仕方ないので買い換えました。
 これを解決しなきゃ仕事にならないってレベルのトラブルが1ヶ月間に3回。厄年にはまだ早いはずなんだけどなぁ。幸い多少仕事が落ち着いていた時期だったのでそれほど焦らずに済みましたが、いやぁやっぱりバックアップって大切なもんです。
 そんなわけで最新のパソコン事情というものに久しぶりに触れました。次から次へと新バージョン、新モデルが出るのは今に始まったことじゃないから文句は言わないけど、メーカーさんにお願いしたいことが3つ。

1)お願いだから、新バージョン出してからもしばらくは旧バージョンを販売しててください。
2)お願いだから、マニュアルは印刷物にしてください。pdfやhtmlのマニュアルは、パソコン壊れてたら読めません。
3)お願いだから、サービスセンターの窓口の電話回線を増やしてください。

 最近はパソコン機器やソフトもずいぶん安くなって、10年前よりはずいぶん気軽に買い足したり買い換えたりできるようにはなってきたんだけど、お金のことは別として、やっぱ手になじんだ道具として見た場合はそんなにコロコロ変更できる訳ではありません。いろいろ事情はあるんだろうけど、半年に1回バージョンアップしてバグが直った頃には次バージョン出すよりは、開発も宣伝もじっくり手間をかけて2年に1回くらいにしといた方が、働いてる人たちも楽しいと思うけどなぁ。。。なんてこんなとこで書いてても誰にも伝わりませんね。でももし「漢字トーク7.5とイラストレーター5で今後一生仕事を続けると誓うグラフィックデザイナーと印刷会社の会」ってのがあったらオレ入会しちゃうかも。
    


2005.7.3  強制大そうじ

 先日、僕の出身地の新聞社の取材と、とある企業のホームページ用の取材を立て続けに2本受けました。
 新聞社の取材は、遠方とのこともあって主にメールと電話での取材でした。ぼくの作品や顔の写真も載っけてくださるとのことで、仕事場にプチスタジオを作って、去年買ったEOS-KISSを使って自分で撮影をしました。いやいや、自分で自分の写真セレクトするのってヤなもんですね。録音された自分の声を聞くとまるで別人のように感じるのと同じように、撮影された自分の顔って、特にそれが新聞に載るのかと思うと、「こんなはずじゃない!」なんて思ったりします。枡川君にお願いして何十カットか撮ってもらいましたが、結局は、「こんな顔なんだから仕方ないじゃん!」ってとこに落ち着いてしまいました。でもそこはデザイナーの悪あがきで、40歳を目前にして目の下に出来てきたシミやなんかは、フォトショップでレタッチしてから送りましたぜ。富山県にお住まいの方、7月5日火曜日の北日本新聞の文化欄を是非ご覧くださいませ。
 一方企業のHP用の取材は、広告代理店の方とカメラマンの方が仕事場まで足を運んでくださいました。先方もお忙しいし、私にも気を遣ってくれて、取材の方はサクサクと進みます。いい歳をしたおっさんが撮影前に鏡をのぞくわけにもいかず、気が付くと撮影も終わってましたが、いったいどうなってることでしょうか。
 さてここから今日の本題なんですが、時々こういう撮影ありの取材が入ると、仕事場がキレイになって事務所のみんなの評判がすこぶる良いのです。今回は、机に向かって仕事しているカットも押さえさせてくれということで、これまで放ったらかしになっていた僕の机の周りの数々のパンドラの箱に手をつけました。いやぁ、出てくる出てくる、こんなもの何のために今まで取っておいたのかと思うような無数のガラクタや資料。半日以上かけてゴミ袋を3つくらい満杯にして、今、ぼくの机の周りはかつてないほど整理整頓が行き届いた状態にあります。わかってはいたんですが、こっちの方が仕事は断然はかどりますね。また取材を申し込まれることなんてあるのかないのか分かりませんが、その時は是非代々木の事務所で撮影アリでお願いします。

 今回はちょっと無理やりネタ作ったとこがあるから今ひとつ面白くないなぁと自分では思いながら・・・また次回。
           


2005.5.21  歳をとるのもまんざらじゃない。

 久々の更新です。またバタバタしてくると放ったらかしになるのは目に見えているので、コーナー再開!・・・なーんて偉そうなコトは申しません。でも、このコーナー楽しみにしてますってメールを時々いただくので、時間が取れた時にはこまめに書き込むように努力します。
 さてさて、あんまり間が空きすぎると話題にも困ってしまいますね。リアルタイムで進行している仕事のことはやっぱり書きにくいし、あんまり昔の話でもつまんないし・・・と考えていたら、ちょうどその二つがいい具合にミックスされた話を思い出しました。

 今、ある広告代理店に依頼をされて、某企業サイトからのフリーダウンロードのペーパークラフトを制作しています。その広告代理店とは初めて仕事をするのですが、最初に依頼のメールをいただいた時に、どこかで聞いたことのある会社だなーと思い(後で知ってみると、実はとても大きくて有名な会社でした。広告の世界には疎いのです、すみません。)よーく考えたところ、知り合いの青年が二人去年就職した会社だということを思い出しました。
 「青年」なんて、まるでおっさん臭い言い方をしたのは、実はその二人、僕の教え子だったからなのです。

 今から4年前、以前お世話になったアートディレクターから突然の連絡を受けました。細密画の権威であるその方、知らない間に日大芸術学部の助教授になっていたんですが、博物画の勉強にしばらくアメリカに留学するということで、半年間だけの代役を探しているそうです。いわゆる非常勤講師ってヤツですね。大学生に教えるなんてもちろん未経験だし、当時の僕は今の事務所を初めて一年足らずの馬の骨だったので、最初のうちは辞退していたのですが、誰か身代わりを立てないとアメリカに行けない助教授の必死の説得と、「坂さ〜ん、何やってもいいからさぁ〜」という甘い誘いを受けて、前代未聞の「ペーパークラフト概論」の講義を引き受けることにしました。
 日芸といえば相当の難関学部です。コミュニケーションデザインの授業の一環ということでで、学生たちは将来グラフィックデザイナーを目指す人たちばかりだし、汎用性のないペーパークラフトの講義なんてどれだけ興味を持ってくれるもんかなーと、恐る恐る始めた講義でしたが、まだ発売前だったからくりペーパークラフト7点をしょっぱなに披露すると思いがけずの大反響。おだてられるとどこまでも登ってしまうのは生まれ持っての性格です。大学側に提出した当初の計画では、紙の種類の話とか加工の話とか、グラフィックデザインをするに当たっても役に立つ知識で半分を費やす予定だったのを、調子にのって急遽変更し、結果的には、「1パーツで完成するペーパークラフト」「ポップアップの作り方」「オリジナルのからくりペーパークラフトを作ってみよう!」という、将来なーんの役にも立ちそうにない3つのお題で、半年間にわたって約10回の講義を終わらせてしまいました。大学関係者の方ごめんなさい。
 後で聞いたところによると学生さんにもずいぶん面白がってもらえたそうですが、ぼくの方も思いっきり楽しい思いをさせてもらった半年間でした。現役の女子大生に「せんせ〜い。ここがわかんないですぅ〜。」なんて言われた日ににゃぁもう・・・なんて話はさておいても、それぞれ基礎的な力は身につけた学生たちが知恵と技術をふりしぼって作る課題作品には、ぼくもずいぶん刺激を受けました。ここだけの話、もし紙工作作家を目指されたらヤバイ、っていう学生さんも二人いました(目指さないね、普通)。
 去年の3月、当時2年生だった学生さんが卒業する際には謝恩会に呼んでもらい、久々の再会で盛り上がりました。他の先生たちが気をきかせてお金だけおいて早々に引き上げる中、池袋のバーで朝の4時まで一緒に大騒ぎという醜態をさらしてしまいました。翌朝目覚めてから死ぬほど後悔しました。

 そう、その中の二人がデザイナーとして就職したのが、今一緒にお仕事をしている広告代理店だったんです。昔の教え子、今じゃぁクライアント様ですよ。幸か不幸か今回の仕事は部署が違ったので、まだ先方はそのことを知りませんが、ここでしっかり仕事をしておけば、将来どっかで遭遇する機会もあるかもしれません。担当デザイナーだったりしたらおもしれーだろうなー。「何?俺のペーパークラフトに注文あんの?」なんつっていじめてやるんだー。そんな日が来ることを夢見ながら、今回のお仕事はいつにも増してきちっとやんなきゃなと気をひきしめたりしています。
    


2004.10.2  セールスレポートの話

 市販品のペーパークラフトに関しては、セールスレポートというものが年に1回出版社から届きます。この1年でどの商品がどれだけ売れたのか、これでぼくに入ってくるお金も決まる大事なレポートです。からくりペーパークラフトのセールスレポートが先日届きました。
 ふむふむ、一番売れているのが「ペンギンの見果てぬ夢」で、その次が「ロボット行進曲」ですか。「ロボット行進曲」は自分ではちょっとひねりが足りないような気もしていますが、お店で8点並んでいて、お子さんがどれが1点選ぶとしたらやっぱりこうなるのかなー。自分でも気に入っている「ためらう男」が僅差で第3位に入っているから、まぁこれは良しとしましょう。
 反対に売り上げがあんまりよろしくないのが「背中に湿疹」と「素顔の白鳥」。何となくわかるような気もします、どっちも地味だしね。個人的にはけっこう思い入れがあるし、サイトを見てくれてる人の中には喜んでメッセージくれる人も多いんだけどなぁ。去年のアクシスでの作品展に親子連れで来てくれたあるお客さん。並んでる8点の作品で遊びながら「じゃぁ好きなの1個買ってあげるからどれか選んで」というお母さんに対して、小学4年生くらいのお子さんが速攻で「じゃぁコレ!」と選んだのが「背中に湿疹」でした。お母さんはもちろん隣で見ていたぼくまでもが「エッ!本当にいいの?他にもかわいいのいっぱいあるよ!」と、説得にかかってしまいましたが、最後まで湿疹にこだわってお買い上げいただきました。渋い少年です。そのまま大きくなってください。

 そんなレポートを見ながらマーケットの動向を探り、これまでの反省や教訓を次作に反映させようとするかというと、実はそんなことは一切しません。ごめんなさい。10人のうち9人にそっぽを向かれても1人が大喜びしてくれるものを作れるのも、気楽さが信条のペーパークラフトの良いところだと思っています。全部同じくらい売れるってもの気持ち悪いし。そんなわけで、目下制作中のからくりペーパークラフト第9弾、見るからに爆発的なヒットはしそうもない姿をしています。来週あたり集文社の社長を口説き落としに行かねばなりません。社長、今度またキャッチーなの作りますからもう一回だけどうぞよろしくお願いします。
     


2004.9.14  デンマークの話・その4 デンマーク語学校

 そんなこんなでデンマークに到着して2ヶ月後、ぼくは隣町にあるデンマーク語学校に通うことになりました。授業は週に4回。朝の8時半からお昼過ぎまでのクラスです。これで退屈とはおさらばだ。デンマーク語が話せない人が集まる学校ですから、当然デンマーク人は先生だけ。生徒は世界各地から集まって来た人たちでした。その顔ぶれが面白いのでちょっと紹介します。
 まず第一のグループは、デンマークの文化に興味があったり家族の都合で引っ越してきたりした人たち。ぼくのクラスにはイタリアからやってきた女子学生とドイツからやってきた母子がいました。お母さんがデンマーク人と再婚して、無職だった長男もついてきたそうです。このグループの人たちは好きでデンマークに来てるわけだしヨーロッパ語圏の人たちなので、もうびっくりするほど上達が速かったです。文法的には似通っている言語なので、きっと単語の置き換えと、あとは発音の練習で対処できたんだろうと思います。ぼくも実はこのグループに属するのですが、2、3ヶ月後にはもうすっかり取り残されていました。
 第二のグループは、デンマーク人の男性と結婚した女性たち。第一のグループ同じようですが、クラスにはタイからやってきた女性が2人だけだったので、ぼくの中では別グループになってます。だんなさんが兵隊でタイへ派遣されていた時に知り合ったというこの2人は、それはもうにぎやかで元気で、同じ東洋系ということでぼくはずいぶんからかわれました。時々家で作ったタイ料理を持ってきて食べさせてくれましたが、さすが本物はパクチーが強烈でした。ただ、あんまり勉強は得意ではないようで成績は今ひとつでした。
 そして第三のグループは、難民の人たち。ぼくのクラスには、イラク人が2人、アフガニスタン人、ソマリア人、旧ユーゴスラビア人がそれぞれ1人ずつ通っていました。デンマークは難民の受け入れに積極的で、この人たちも家族でやって来た人たちで、2年間は住居を保証され、仕事を見つけるためのデンマーク語教育も無償で受けられるそうです。学校で生徒に配られるパンフレットには「デンマーク語を学ぶのも大切だけれど、子供たちには母国語も教えて、自分たちの文化を大切にする人に育ててください。」と書いてありました。なかなか感動です。これまで触れたことのない国の人たちでしたが、知り合ってみれば当たり前のことながらただの気の良い兄ちゃんやおっちゃんたちで、憶えたてのデンマーク語でいろんなことを話しました。お気楽な身分のぼくにはけっこうきつい話も多かったです。イラクから来たサイードは母国では弁護士、アフガニスタンから来たぼくと同年代のハッサンは小学校の教員をしていました。アラビア語とはまったく体系の違う言語を歳を喰ってからマスターするのはやっぱりきついらしく、しかも母国では知的な職業に就いていただけに、時々本当にせつなそうな顔をしていました。自分の築き上げたキャリアや人間関係を強制的に断たれて、勝手のわからない国で一から始めなければならない気持ちは、ぼくには想像もつきません。でもソマリア人のシアードは、母国にいた時にはヨメさんを3人も持っていたお坊ちゃんで、いつもバリっと決めた格好で通学していたかと思うと、学期の途中で「こんな進み方の遅い学校はやってらんねぇ!」と言って他の学校に移っていき、みんなから大ヒンシュクを買っていました。これも当たり前ですが難民っていっても人それぞれです。

 今回の文章を書くにあたって、デンマークの難民政策について少しネットで調べてみました。難民受け入れに積極的だった旧与党が2001年の総選挙で敗れ、現在は、難民・移民の規制強化が行われているそうです。ところで日本の難民政策ってどうなってるんだろうか。気にしたこともないや。あんな経験しておきながらこの辺にすぐ意識の行かないところがぼくの弱っちいところです。
   


2004.9.3  デンマークの話・その3 覚悟はしてたけど・・・

 新生活が始まって最初の1週間は、生活用品の買いだしや各種手続きに追われてあっという間に過ぎました。ヨーロッパの田舎町での買い物っていうと、伝統のあるチーズ屋さんやジャム屋さんが並んでいるっていうイメージがあったんですが、日本の田舎と同様すっかりアメリカナイズされていて、車を飛ばして隣町の大型ショッピングセンターへ行けば何でもそろってしまいます。前年から赴任していた同僚家族の方たちにお世話になって、余った時間は観光なんかも連れていってもらったりして、ほとんどお客さま気分でした。そうそう、車がないとどうにも身動きが取れないので、この間に自家用車の手配もしました。生まれてはじめて持ったマイカーは三菱でした。こちらじゃ立派な外車です。そしていよいよヨメさんは出勤開始。ぼくの専業主婦生活が始まります。
 いやいや、一日があんなに長いものだとは思わなかった。何となく話し合いで決まったぼくの一日の仕事は、ヨメさんの勤務先への送り迎え・掃除と洗濯・買い物と晩飯の支度でした。ヨメさんを送り届けて帰ってきた朝7時頃から、仕事が終わって電話がかかってくる5時か6時頃まで、これだけかたずけてしまえばあとは全部自分の自由時間です。子供がいるわけでもなし、2時間もあれば仕事は全部済んでしまいます。家中掃除機をかけて、洗濯ものを乾燥機にぶち込んで、たまには窓なんか拭いたりして、やれやれと思ってもまだ午前中、テレビをつけても笑っていいともはやってくれていません。ソファに寝ころびコーヒーを飲みながら、買い貯めて行ったミステリーを一日中読みふけって幸福を感じていたのも最初の三日間だけ。以前に行ったネパールやインド旅行の時にも痛感しましたが、何もしなくて良い/何をしてもよいという環境は、ぼくにはどうにも向かないようです。出発の直前に船便で送ったパソコンがまだ届いていないというのも、時間を持て余す大きな原因の一つでした。そのころにはすっかりマックで作業をするのが普通になっていたので、今さら鉛筆を持って紙に向かう気にはなりませんでした。あんまり道具に頼り過ぎるとこうなってしまいます。これは今でも反省していることの一つです。
 このままじゃいかん、何か始めないと頭がおかしくなってしまうと思ったぼくは、この後、今から考えると信じられない大胆な行動に出ます。「せっかくだから何か学ぼう。できれば美術関係かな。」→「外国人を受け入れてくれる学校ってどこだろう。」→「どこに行けば教えてくれるだろうか。」→「日本だったら文部省かな。でも電話で問い合わせる自信もないし。」→「よし、直接出向いてしまえ。」こういう思考回路だったんでしょうか。う〜ん短絡的だ。首都のコペンハーゲンが車で一時間ほどの距離だったこともあって、ぼくは地図でそれらしいお役所の場所を調べて、いきなり押しかけていってしまいました。
 デンマークの良いところは何事も規模がこじんまりとしていてフランクなことです。後から考えるとこれは当然通常の手続きを相当に逸脱したルートなのですが、お役所の守衛さんにカタコトの英語で趣旨を説明したら、何カ所かそれらしい部署を紹介してくれて、とうとう外国人の教育関係担当者のオフィスにたどり着きました。個室だったからけっこう偉い人だったに違いありません。窓口を迂回していきなり訪れた東洋人を相手に、いろいろ状況を聞いてくれたうえに参考資料までコピーして持たせてくれました。易しい英語で説明してくれた結論は一つ。「まずはデンマーク語を勉強してから出直してきてください。」当たり前ですね、子供じゃないんだから。ここでハタと現実に立ち返ったぼくは、ヨメさんの勤務先に問い合わせて近郊のデンマーク語学校を紹介してもらうのでした。最初からそうしろって。次回はデンマーク語学校の話です。
  


2004.8.5  これが本来のワークショップノート。まんまワークショップの話です。

 先週の土曜日、名古屋のINAXギャラリーで行われている展覧会の企画でワークショップを行ってきました。半年に一度ほどのペースでこれまでもいろんな所に呼んでいただいたことはあるものの、対象を子供に限定しないワークショップは初めてで、実際、中学一年生の学生さんから推定60代後半の方まで、文字通り老若男女25名の方たちに参加していただき、とてもおもしろい体験をしてきました。小学生が中心のワークショップとの違いは、何と言ってもその集中力の差。たいがいのお子さんは、紙を切り出して30分もするとだんだん飽き始めてザワザワし出し、付き添いの親御さんが中を引き継いで組み立ての最後の方でまたバトンタッチというパターンが多いのです。でも今回は数時間の間ほとんど私語もなく、皆さん黙々と机に向かわれていました。せっかく名古屋まで来たことだし、講師料もいっぱいいただいているし、何か役に立たなきゃいかんと思いながら各テーブルを周って皆さんに話しかけましたが、道具の説明をした最初の30分以外は、ぼくはほとんど皆さんの邪魔してましたね。あんまり皆さんが静かなので、もしかして参加したことを後悔してるんじゃないかと半分本気で心配になりましたが、予定の3時間を過ぎて、それでも完成しない方のためにギャラリーのご厚意で時間を大幅に延長してもらったところ、ほとんどの方が閉館の6時まで残って必死に組み立ててくれたので安心、かつ少し感動しました。モン・サン・ミシェルを選んだ方はほとんどが時間内に完成できたようでこれも一安心。いやー、自分のデザインしたものを目の前で組み立ててもらうのはやっぱり刺激になります。毎週とか毎月ってのはキツイけど、これからも時々はこういう機会を持ちたいと思います。名古屋のみなさん、及び東京と福島からわざわざ参加してくれたお二人さん、ありがとうございました。追加で買っていただいたキットは、コーヒーでも入れて好きな音楽を聴きながら(あんなに鬼気迫った表情をせずに)ご自宅でのんびりと組み当ててください。
 ワークショップ終了後ギャラリーの方にご馳走していただいた名古屋名物「ひつまぶし」、たいへん美味でした。お茶と肝吸いの両方を試してみましたが、ぼくは肝吸いで食べる方が好きです。
    


2004.7.29  デンマークの話・その2 まだ前説。なかなかおもしろい話までたどり着きません。

 97年の3月の中頃、デンマークのカストラップ空港に到着しました。3月中旬といえば日本ではそろそろ桜の時期ですが、北海道と同じくらいの緯度にあるデンマークではまだ寒いさなかです。ヨメさんの勤務先のある町に向かうバスの中から見た初めてのデンマークは、曇り空のもと木枯らしめいた風が一面の畑をピューピュー吹き抜ける、灰色のとてもうら寂れた国に見えました。もしかしてとんでもない決断をしてしまったんじゃないか俺って、いきなり少し後悔したりして。
 でもそんな不安はすぐに解消しました。翌朝は打って変わって雲一つない快晴。気温は低いけれど日射しは強いので、日なたはなかなか快適です。ぼくたちの住むことになった町は、首都コペンハーゲンから南へ100キロほど下った海沿いの小さな町で、人口は約7000人。20分もあれば一回りできる町の中心部には、赤や黄色に塗られたレンガ造りの小さな家が建ち並び、空の青と、森の緑と、まるで絵に描いたようなヨーロッパの田舎町でした。近所の森には鹿やキジが住み、嘘みたいな話ですが町なかを時々馬に乗った人が通りかかります(もちろん交通手段ではなくて趣味ですよ)。昔の庄屋さんの屋敷には、童話作家のアンデルセンが一時期滞在していたこともあるそうです。勤務先が手配してくれたアパートは、中心部のすぐ近く、昔は市場だったという広場に面して建っていました。アパートの裏手はすぐヨットハーバー。滞在中の3年間に日本から遊びに来てくれた親戚や友人たちが、みんなため息をついてうらやましがったロケーションと広さ(120平米もあるのに3K。リビングは20畳以上、洗面所が無駄に4畳半ほどありました)のこのアパートで、いよいよデンマーク生活が始まります。
      


2004.7.26  デンマークの話・その1 まずは前説

 唐突ですが結婚してます。いや別に電撃入籍のご報告ではなくって、かれこれ10年目を向かえんとするバリバリの中年夫婦なのですが、これ抜きに話を進めることができないのでまずは前置き。
 1997年から3年間、夫婦2人でデンマークに住んでいました。デザイナーをやっていて北欧に住んでいたっていうと、たいていの人は、「ハイセンスな北欧デザインを勉強しに行ってたんじゃないか」とか、「国際企業でデザイナーとしてバリバリ働いていたんじゃないか」とか、実に良い方向に誤解してくれることが多いのですが全然違ってまして、ぼくの場合はヨメさんの海外赴任にくっついて行ったというのがその理由です。近頃は留学や海外赴任も当たり前になって、2年や3年海外で暮らしたことのある人は珍しくなくなってきました。それでも、奥さんの仕事の都合で海外に移り住んだダンナというのはあんまりいないのではないかと思います。30を越えて無職に逆戻り、ビザの都合で就労はNG、でも生活費はヨメさんが稼いでくれるから当面は心配なし、という状況下での海外生活は、振り返ってみると本当に異次元の世界の出来事のようでした。人に聞いてもらいたい面白い話、珍しい話がいっぱいあります。これまでもちょこちょことは書いてきましたが、そのうちちゃんと順を追って紹介したいなと思っているうちに、気がついたら帰国してもう丸4年。タイミングはずしてしまった、いまさらなあ・・・という感じが強烈にするので、この地味〜なコーナーで時々こっそり書いていくことにしました。こっそりとよろしくお願いします。

 初回の今日は、まずはデンマークに行くまでの話です。ヨメさんの赴任が決まったのは96年の夏。当時ぼくは自宅の一室ににマックを置いて働く、いわゆるフリーのグラフィックデザイナーでした。勤務先に赴任希望を出しているとは聞いていたものの、そんなもの決まるわけがないとタカをくくっていたぼくは、正式決定を聞いた時にはさすがにちょっとビビってしまいました。独立して2年ほど経った頃で、いくつか得意先もできてそこそこ忙しくなり始めた時期です。もうちょっと頑張れば中堅どころのデザイナーとして認めてもらえるかどうかという時期に「すみませーん、仕事やめて3、4年デンマークに行ってきまーす。」と得意先に言ってまわるのは、客観的に考えるとけっこう無謀な行為だとは思うのですが、最初の驚きから覚めた後は不思議なほどすんなりと気持ちを切り替えることができました。決まったものは仕方がないし、二度とできない体験だし、なにより面白そうだし。
 その後の半年間は、就職が決まって卒業単位も取り終えた後の学生みたいなもんです。来年春からの不安はあるけれど、想像もつかない世界だから心配のしようもないし、まあせいぜい明るい期待を持ちながら形を整えておくくらいのことしかできません。ぼくの場合は、来年からの無収入に備えて平日はひたすら働き、週末は毎週のように古本屋をはしごして回りました。海外生活に当たっての一番の不安が本の入手方法だったというのもどうかと思いますが。なにしろ向こう数年分の本ですから、これまでは二の足を踏んでいたジャンルや作家の本も含めて、気になった本をバッサバッサと買いこみました。もう一生あんなにまとめて本を買うことはないだろうと思います。幸せだったなぁ。合間をみては未知の国デンマークの予習も始めました。名前くらいは知っていましたが、これまで気にしたこともなかった国です。てっきりスカンジナビア半島のどこかにあるものだと思ってたら実際には半島とドイツの間の海に浮かぶ小さな島国で、総面積で九州くらい、人口は500万人しかいないこともその時初めて知りました。そしてデンマーク語という言語の存在。これも古本屋の片隅から『デンマーク語入門』という本を見つけだして、一人で勉強を始めました。この時に覚えた文法の知識は後でずいぶん役に立ちましたが、デンマーク語の特徴は何といってもその独特の発音で、こればっかりは3年間苦労させられることになります。自慢じゃありませんが自分の住んでいた町の名前をいまだに発音できません。それから、これはいつか本格的にやりたいと思っていた釣りの準備。まわり中海に囲まれている国だからさぞかし釣り放題だろうと、とりあえず釣りの仕掛けやテクニックの本を何冊も仕込んで行きましたが、あんまり役に立たなかったことはきっとまた詳しく書いてしまいます。あ、そうそう、食事の支度はぼくの仕事と(話し合いの余地なく)決まっていたので、料理の本や和食の食材もずいぶん買い込みました。昆布とかつお節とのりと増えるワカメをそれはもう山ほど。きっと恋しくなるかと思ってうどん粉まで買いましたよ。普通自宅でうどんは打ちません。これは3年後捨てて帰ってきました。
 そんなこんなでモラトリアム気分の半年間はあっという間に過ぎ、3月にはアパートと引き払って夫婦でデンマーク行きの飛行機に乗りこみました。いよいよこれからが本番です。続きはまた次回。
      


2004.7.17 

 ペーパークラフトの販売にかかせないのが完成サンプルです。これがあるのとないのじゃ売れ方も全然違うそうで、スペースを確保してくれるお店には、出版社とぼくのところで手分けして作った完成見本をつけるようにしています。バイトのマスカワ君が入ってから展示見本の制作は主に彼の仕事になっていました。「来週までにペンギン5つ、ケイの内側ウラ筋(注1)でよろしく!」なんて、気軽に頼んでいましたが、学校を卒業して図工室内フリーランス(注2)になったマスカワ君は今とっても忙しくて、とてもじゃないけど仕事をお願いできる雰囲気じゃありません。そんなわけで、先週の半ばからぼくはひたすら鬼太郎の完成見本を作っています。
 何にも考えずにひたすらペーパークラフトを組み立てるのはある意味とても幸せな作業なのですが、久しぶりに手作業に専念してみて気がついたことがあります。それは『確実に手先が不器用になってきてる』ということ。見本から何から全部自分一人で作っていた数年前、いやもうちょっと前の半立体イラストなんかを作っていた頃は、自分の手先の器用さにはそこそこ自信がありました。小口でののりづけ(注3)や紙のうす剥ぎ(注4)は日常茶飯事だったし、りんかく線をコンマ数ミリ内側にずらして切った厚紙を裏側に貼って紙の周囲をガラス棒でなぞって丸みを出す作業を、何百個ある部品一つ一つにほどこしたりなんかもしていました。切る作業は今でもまぁ大丈夫なんですが、組み立て作業の腕はずいぶん鈍ったなぁと今回実感。目玉おやじはずいぶんのりがはみ出してしまった。
 最近はできるだけシンプルな組み立ての作品を作ろうと心がけてはいますが、できるけどやらないのと、できないからやらないのでは大違いです。手先の不器用な紙工作作家なんて洒落にもなりません。あんまり楽しようとしちゃいかんなぁと、今回ちょっと反省しました。

注1:部品によってはキリトリ線の黒い筋が残ると見苦しくなるものがあります。また、鉄筆を紙の表から入れると折り目が割れてしまいます。完成品がきれいに見えるように、キリトリ線のギリギリ内側で切って鉄筆も裏側から入れてね、という指示です。図面の寸法自体はキリトリ線の中央で設定してありますし、裏から筋を入れるとずれやすいので、制作途中の試作は「ケイの上おもて筋」でやっています。業界用語では全然なくて、ただの図工室用語です。

注2:場所も機材も自由に使っていいから時間空いてる時は自分で仕事見つけてきて勝手にやってくれ、という制度です。要はフルタイムで雇うほど余裕ないってことですね。いきなり大きな仕事を見つけてきて、今マスカワ君は図工室内で一番忙しい男です。週に何日泊まってるんだろうか。若いってすごいなぁ。

注3:一点ものの立体イラストを作る際には、のりしろは作りません。紙の切り口(小口)どうしをのりづけした方が仕上がりがきれいになります。

注4:同一平面上で紙を重ねて貼り合わせると、どうしても紙の厚さだけ段差ができてしまいます。それが気になる時は、下になる紙を上に貼る紙の厚さ分だけ前もって剥いでおきます。木工や大理石でいうところの象嵌という技法ですかね。
     


2004.7.6 さりげなく再開

 京極夏彦の「姑獲鳥の夏」の映画化が決まったそうで、キャスティングも発表されました。以前から榎木津の役を出来るのは阿部寛か松岡修三しかいないと思っていましたがやっぱりみんなそうだったかとかいろいろ語りたいことはあるのですが、ほぼ一年ぶりのこのコーナーの更新でこんなこと書いても仕方ないので今日くらいはちゃんと仕事のこと書こうと思います。
 「ペーパーエンジニア」というのがぼくがいつも外に向かって名乗っている肩書きで、このホームページで紹介している仕事はその方面の作品がほとんどなのですが、名刺にはもう一つ「グラフィック・デザイナー」という肩書きも刷ってあります。あまりみなさんに紹介することはありませんが、実はこのグラフィックデザイナーとしての仕事、平均するとぼくの仕事の約半分を占めています。もともとグラフィックデザイナーとして独立したのがほぼ10年前。それなりにやり甲斐はあったけど、何かもの足りないなぁと思ってペーパークラフトに向かい、一時はこっち1本に絞ろうかと思っていた時期もありました。グラフィックデザイナーとしては社交性や行動力や多様性に欠けているという自覚はあったし、特に広告デザインの仕事のペースにちょっと着いていく自信が持てなくなっていた頃です。そんな時にやった仕事は、時間をかけた割には面白みのない、自信のなさが現れているものが多く、やっている時も辛かった記憶が残っています。
 面白いもので、ペーパークラフトの仕事がそこそこ入ってくるようになると「俺にはペーパークラフトがあるからいいもんね」と無意識に思っているのかどうか、肩の力を抜いてグラフィックの仕事に向かえるようになりました。肩の力が抜けてるということと手抜きということは紙一重だけどやっぱり違ってて、最近の仕事は時間をおいて見直しても納得のいく、自分らしいものが増えたように思います。
 こうして二足のわらじで活動をしていて楽しいことは、依頼する側とされる側、両方の立場を経験できることです。一般にグラフィックデザイナー、あるいはアートディレクターという仕事はイラストレーターやカメラマンに依頼をすることが多く、ペーパーエンジニアの仕事は逆にディレクター的な立場の人から依頼を受けることが多いのです。イラストレーターの方にスケジュールやギャラの説明をしながら「うわあ、俺って今けっこう無茶な注文してるよなぁ。」と思ったり、ペーパークラフトのデータを納品してから「デザイナーの人はあと2日でこれをレイアウトして入稿するのか、きっと今晩は徹夜だな。」と思ったり、互いの立場が実感できるだけに気を遣うことも多いのですが、たいがいは世を忍ぶ仮の姿的な自分を楽しんでいます。時々は取材を受けて作家さんっぽく扱っていただいたり、そして時々はクライアントとイラストレーターの間をうま〜く丸〜く取り持ったり。両方の姿を知ってる人にはちょっと奇妙に見えるようで、昨年の5人展で出展作家とお客さんとして知り合いその後お仕事をお願いしたイラストレーターの方には最初「え〜、あの紙工作の坂さんですよね〜」って不審がられましたが、こっちもそこそこちゃんとやってますので怪しまないでください。
 昨年の末からこの春にかけては、実はグラフィックデザイナーとしての仕事がずいぶん立て込んでいて、ホームページの更新もおろそかになっていました。4月以降は以前の配分にもどり、立て続けに手がけた紙の仕事も順次発表できる形になってきています。そんなわけでこのコーナーも久しぶりの再開。今はどっちの仕事も面白いからずっとこのペースってのは難しいと思うけど、あと3つくらいは更新のネタも残っているし、このコーナーも(できるだけ)まめに書き込むようにしますので、またどうぞごひいきに。
  


2003.8.9 先のとがったもの

 9月に参加するイベントで使われるキットを作っています。モデルはすんなり完成。最近は組み立て説明図を描くのにもずいぶん慣れてきて、それほど苦ではなくなってきました。で、最後に説明文。この段階で、いつもちょっと悩んでしまうことがあります。
 それは鉄筆の説明。ここを読んでいる方ならこの道具の使い道はご存じだと思いますが、紙の折り線に筋をつけくっきり折るためのもので、ペーパークラフトにはなくてはならない道具です。でも、この道具そのものや『鉄筆』という名前が一般的なものかというとそれはかなり疑問。東急ハンズに行っても売っていませんし、銀座伊東屋に6本だけ残っていたうちの5本はこの前ぼくが買ってしまいました。もともとは昔懐かしいガリ版を引っかいて字を書くための道具だけに、今後ますます手に入れにくくなると思いますし、名前を聞いてもピンとこない人がどんどん増えてくるでしょう。

 これには他の紙工作作家さんも苦労しているようで、いろんなキットを見てみても、人によって記述はまちまちです。一番シンプルなのは、ずばり『先のとがったもの』。それって具体的には何を想定してるのさっていう疑問はさておくとしても、これだと、先が程度に丸くなってる方が良いっていうニュアンスが伝わりません。『カッターの背』っていうのも分かりやすいですね。でもこれをすると確実に紙が割れてしまいます。
 以前、シャープペンシルの芯を出さないで使うとそこそこいいよって人に教えてもらいました。これなら誰でも手に入るので、ぼくは紙面スペースのある時には『芯を出さないシャープペンシルで代用できます』って書いていますが、これもなんだかわびしい言い回しですね。
 よく見かけて、実際道具として一番使い勝手がよさそうなものは『インクの切れたボールペン』でしょうか。でもペーパークラフトを作ろうと思いたった時にたまたま手元に使い終わったボールペンがあった、という幸運な人は珍しいんじゃないかと。紙模型.comのNさんによると、新品のボールペンでも死ぬ気で使えば1カ月くらいでなくなるそうですが(試したNさんエライ!)、うーん、それも大変だよなぁ。インク切れたつもりが筋をつけてる途中に何かの拍子でニュルって出てきたらとても悲しいです。
 『千枚通しの先を砥石で丸めて使うと良い』っていう記述も見たことがあります。それってペーパークラフト作るより大変じゃんと思わずつっこんでしまいました。また集文社では、デパートなどでワークショップを開く時に千枚通しや鉄筆は子供には危険だってことで、割り箸を鉛筆削りでとがらせて使っていますが、やっぱり木だとすぐに用を足さなくなるそうです。  
 この手の道具を一切使わずに紙を折らせる解説もたまに見かけます。折り目のところに定規をあてて、定規の角に沿わせて紙を折る、というものです。これは画期的かもしれないと試してみましたが、細かい所はけっこう大変でした。
 外国ではどうしてるんでしょうか。海外のキットを見てみると、やっぱり向こうでも苦労してました。例によって多いのは『ball point pen which has run out of ink』。インクがなくなったところのボールペン・・・大層に関係副詞使ってまで表現することかいなって気はします。『blunt knife』って表現もよく見かけます。『切れ味の悪いナイフ』。これも見つけるのに苦労しそう。ていねいなものになると、これに布テープを巻き付けると握りやすくなるよ、なんてことまで書いてありますが、砥石に匹敵する面倒臭さです。

 これらの記述のどうにもわびしいイメージはどこから出てくるのかとちょっと考えてみたところ、これはどうも『その道具本来の機能からすると使い物にならなくなって初めて折り筋をつける道具として機能する』という点にあるようです。世界中の紙工作作家がこれだけ苦労しているのも一重に「紙をきれいに折るために筋をつける」ことを主目的とした道具を、どこの文具メーカーも作っていないため。最初からインクの入ってないボールペンを作って、誰かこれに『はさみ』『のり』に匹敵するような簡単な名前つけて、大々的に売り出してくれないもんかと思いながら、たぶん今回も『インクの切れたボールペン』を繰り返します。
   


2003.7.31 海の外からうれしい話が2つ

 時々海外からのメールが届くって話は以前にも書きました。どうやって見つけるんだか知りませんがありがたい話です。何ヶ月かに一度、郵便局で重さを測って発送し、何ヶ月かに一度、手紙の隙間にこっそり隠した現金が届きます。去年アメリカから届いた強烈なヤツは、封筒に「宝物は見つけらるかな?」って書いた手作りのポストカードが1枚だけ入っていて、もしやと思ってカードを2枚に剥ぐと中から50ドル札が1枚出てきました。50ドルだから笑い話で済みますけど、これって完全な密輸です。変な葉っぱなんて入ってた日には手が後ろに回ります。あんまり凝らないでほしいものです。
 今日はこんな話じゃなくて、海外がらみのうれしい話を2つ。今年の春先にやっぱりネットを通してぼくのキットを買ってくれた香港の方が(本人の名誉のために書いておきますが、この人は高い手数料払ってちゃんと銀行に振り込んでくれました)、この夏ペーパークラフト専門ショップをオープンしました。もちろんぼくの作品だけじゃなくて、集文社、公文など日本のペーパークラフトはもとより、アメリカ・イギリス・ポーランド・タイなど世界中から集めたペーパークラフトでお店を丸ごと埋め尽くしています。最近2店舗目をオープン、今年中には5店舗に増える予定だそうですからすごいです。オーナーのロディさんが先日来日し、仕事場に遊びに来てくださいました。まだ30歳そこそこの彼ですが、カナダと日本と韓国でコンピュータエンジニアリングと経営学を学び、英中日韓最低4カ国語はペラペラ、無茶苦茶仕事できそうな感じの人でした。「唯一の誤算はビジネスのツールにペーパークラフトを選んだことだね、大金持ちにはなれないね。」って言ったら「みんなからそう言われる。でも昔から好きだったから。」って笑ってました。でも香港ではもちろん多分アジアで初のこのお店、開店当初からテレビや雑誌の取材が相次ぎ、今のところ経営も順調だそうです。「どんどん新作置いていきたいから坂さんよろしく」って言われました。こちらこそよろしく。お店のサイト、先日リンクに加えましたのでのぞいてみてください。
 それからもう1つ。ロンドンのポールスミスのバイヤーなる方から春頃メールが届きました。以前来日された時にハンズかどこかでぼくの作品をおみやげに買って帰り、これをロンドンのショップで扱いたいんだけどどんなものかとのこと。ポールスミスってあのポールスミス?10年くらい前に友達の結婚式に出るために買った、ぼくが唯一持ってるスーツのあのポールスミス?半信半疑ながら返事を書いて送ったところ、しばらくしてポールスミスジャパンの方から詳しく問い合わせる連絡をいただきました。やっぱり本当だったのでした。びっくり。日本でもビームスなどに行くと欧米のキッチュな雑貨が並んでいたりしますが、あんな感覚で見ていただいたのでしょうか。もちろんうれしいのだけど、何やら不思議な気持ちです。出版社を通して先日発送を済ませたので、たぶんこの秋くらいにはロンドンのショップに並ぶのではないかと思います。うー見てみたい。でももしロンドンに行ったとしても、気後れしてショップには入れないような気がする。近々向こうに行かれる方、どなたか写真撮ってきてくださいな。
   


2003.6.2 めずらしく音楽の話

 仕事場では3連奏のCDプレーヤーを使っていて、一日中何かしら音楽がかかっています。チェンジャー部のメカニズムがやっぱりちょっと弱いようで、事務所設立3年にしてすでに二代目ですが、いちいちCDを交換する手間が省けてとても重宝しています。毎朝最初に出社した人間がその日の気分に応じて3枚のCDをセット。ゆとりのある時は約2時間ごとに誰かが交換しますが、みんなバタついている時は最初の3枚が一日中リピートしてるなんてことはザラで、これが普通のプレーヤーだったらさすがに聴いてられないだろうと思います。
 順番に聞くわけだから別にこだわる必要はないとはわかっているものの、やっぱり気を使ってしまうのが同時にセットする3枚のCDのセレクトです。1枚目にゴンチチ、2枚目にレッドホットチリペッパー、3枚目に原田真二、なんて選曲はいくらなんでも節操がなさすぎるわけで、自分なりに調和のとれた3枚を選ぼうとする心理の裏側には「ぷっ、こいつこんなCD選んでやんの、センスわりー」と、他の3人に思われたくないという気持ちが働いているのかもしれません。逆に言うと時々、誰かが選んだ思いがけない3枚の連奏が、一枚一枚を単独で聴いているだけでは想像できなかった新しい音楽世界を生み出して「おおっ、お見事!」と驚くケースもありますが、どっちにしてもそんなに大げさな話じゃありませんな。
 一番無難なのは同じミュージシャンを3枚続けることです。ビートルズ3連奏、ゴンチチ3連奏、ソウライブ3連奏、スティーリーダン3連奏、なんてのはぼくにとっては黄金のパターンで、この辺は一日中回っていてもさほど苦になりません。ポリス3連奏、キリンジ3連奏も大丈夫かな。真心ブラザーズ3連奏、クィーン3連奏、チャー3連奏とかになるとさすがに3巡目あたりでやかましくなります。
 何となくカテゴリーの似たタイプのミュージシャンを3人並べるのもよくあるパターンです。もっともこのカテゴリー分けというのは各自が勝手にやっていることなので、それが万人に認められるとは限りません。そこに先に述べたセレクトの妙も生まれるわけです。最近、といってもここしばらくCDを買っていないのでちょっと古いですが・・・よくかけるのは「くるり」「キリンジ」「スーパーカー」の3連奏。「スーパーカー」がちょっと微妙で、この位置には「ほふでぃらん」が入ったり「スガシカオ」が入ったりします。「スティング」「U2」「プリンス」なんてのも大学時代を彷彿とさせて可。「クラッシュ」「ツェッペリン」「Tレックス」とか「スライストーン」「タワーオブパワー」「アースウィンドアンドファイア」なんてのも、詳しい人は異論もあるでしょうが自分的にはOKです。
 長い間「アイコ」と「トミーフェブラリー」の2連奏の後に続くべき3枚目が見つからず「ラブサイケデリコ」や「パフィ」でお茶を濁してきましたが、実は近田君も密かにそう思っていたらしく、ちょっと前にブックオフで「ユキ」のCDを安く手に入れてきました。別にファンでも何でもないのに。さっそく3枚連続で聴いてみたところ「のどのつかえが取れて落ち着くところに落ち着いた」感じがして二人で安心したものです。

 ずいぶん脈絡のないミュージシャンの名前を連ねてきましたが、図工室全体を見るととますます統一性はなくなります。近田君はブリティッシュロックとジャズが得意、堀ノ内君はぼくが名前すら知らないような音楽をかけます。マスカワ君はモヒカンだけあってあの辺の音楽が好きらしいのですが、バイトに入って間もない頃、好きなCD持ってきてかけていいよっていったら「氣志團」を持ってきてみんなから総スカンを喰らい、それ以来彼に音楽の選択権はありません。
  


2003.5.10 モルさんプレッシャーサンキュ。

 便りのないのは元気な証拠、とはいえ何ヶ月も放ったらかしでごめんなさい。今年のしょっぱなに半分自己暗示のつもりであんなこと書いた成果があったのか、ここ数ヶ月とても目まぐるしい毎日で、なかなか落ち着いて頭を整理する時間がとれませんでした(釣り堀の点数が抹消されたのではないかとものすごく心配)。とはいっても転職するわけではないのでご安心を。スパンの長いペーパークラフトの仕事や企画がいくつか決まって、当分はいやでも紙を切り続けることになりそうです。
 まずは夏前に商品版のペーパークラフトが2点出版されます。1つ目は、本当は4月に出るはずだった頭骨ペーパークラフト完全版。カードのリニューアルにずいぶん手こずり、なかなか手をつける時間が取れなかったのですが、何とか今月中に入稿をしようと目下奮闘中です。紙工房見てくれてる人の中じゃこれを待ち望んでいる人は少ないかもしれないけど、BRHには問い合わせの電話とか入ってるんですよ。頭骨に変わるBRHカードの本年度のおまけもがんばったのでご期待ください。そして2つ目は、お待たせしました、からくりペーパークラフトの新作です。次作はこれまでとはちょっと体裁を変えて、からくりモノ1点、そうじゃないの2点の計3点をまとめて、書籍として出版することにしました。その分値段が上がってしまうのは申し訳ないのだけれど、本屋さんで扱ってもらえるのでずいぶん手に入りやすくなると思います。3点セットにする意味もちゃんとあるシリーズなのでお許しを&お楽しみに。内容は近日発表、評判良ければ12月に2冊目が出るのでどうぞよろしくお願いします。秋には、とあるイベントに参加することになりました。こちらは、我ながら今までの自分らしくないモチーフなのですが、負けず嫌いの性格で挑戦してみることにしました。今年の夏休みはこれにかかりっきりになりそうです。 

 なんだなんだ仕事の話ばかりでまるでワークショップノートらしくねーや。んーと、何かなかったかな面白い話。

 3月におこなった市ヶ谷の作品展で、あるペーパークラフトファンの老紳士とお知り合いになることができました。この方、紙工房も隅々までご覧になっていただいており、なんとモノ・キッズの付録まで作ってくださったそうです(この書き込みが目に留まるのも時間の問題です。ネタにしてごめんなさい、Nさん)。お孫さんや近所の子供達に完成品を見せるのが楽しみで、ご自宅には学校帰りの小学生たちが集まってくるとのことでした。これはもう、理想的な紙工作の楽しみ方ですね。びっくりしたのは生まれて初めてサインをお願いされたことで、そんなもの準備してるわけもなく、お買い求めいただいた「またいたの上」の展開図の隅っこにおそるおそる楷書で名前を書かせていただきました。大変照れました。ご自宅には、昨年の個展で手にいれたという、ごとうけいさんのサイン入り展開図が額装して飾ってあるそうです。けいさんはどんな顔してサインしたんだろうか。
 実はこの方、某有名ミステリー作家のお父様で、ミステリーの話でもずいぶん盛り上がりました。さすがに我が子の作品には厳しく、この前のアレは良かったが最近のコレはなっちょらんと解説される様子がとても楽しかったです。アトムカードを少し余分にお譲りしたお礼にと、先日息子さんの作品を2冊送ってくださいました。1冊はオススメ、もう1冊は「わしにはワケがわからんかった」そうです。楽しみー。
    


2003.1.16 年の頭だからがんばって更新してまっす。

 どこかでも書きましたが、ぼくが紙の仕事に興味を持ったきっかけは飛び出す絵本でした。グラフィックデザイナーになりたての頃、隣に座っていた先輩が飛び出す絵本好きで、いろいろ見せてもらっているうちに自分でも見よう見まねで作って人にあげたりするようになりました。そういえは専門学校の卒業制作も飛び出す絵本でした。
 日本では大日本絵画という出版社が精力的に飛び出す絵本を出版しています。一時期ずいぶんそろえた、ナショナルジオグラフィックのシリーズもここからの翻訳本で、最近ではしかけ絵本の基礎知識っていう大ヒット作もありました。去年の12月、市ヶ谷にあるギャラリーで大日本絵画の飛び出す絵本展があると教えてもらって喜んで行ってきました。ぼくが飛び出す絵本好きだと知っているギャラリーの方がわざわざ出版社の方を呼び出してくださり、いろいろと話をうかがうことができました。年またぎですが今日はその話を。

 けっこう知っているつもりだったのですが、日本で出ている飛び出す絵本の種類というのはぼくが思っていた以上の数でした。書店によって売れ筋というのがあるそうで、全部の飛び出す絵本が一店舗にそろうということはまずないそうです。なるほど。それでも、日本の作家の手によるものはほぼ皆無。予想通り、問題はやっぱりコストでした。英語圏はともかくとして、飛び出す絵本というのは、一国でそんなに鬼のように売れるものではありません。一つの作品をブックフェアなどで発表して世界中から出版社を募り、ある数に達したところで初めて出版です。そうやって生産ロットを増やして、一冊あたりのコスト、ほとんどは手作業による加工賃を下げるというしくみです。(だからたまたま日本でバカ売れして再版が待ち望まれても、次の印刷にかかるかは世界のよその出版社待ちという状態もあるとのことでした)。つまるところ、その内容が世界に通用するものでないと出版は難しいということなのです。ページを開くと桃が真っ二つに割れて中からタロウ君が誕生する、なんてのはダメなんですよね、きっと。
 それでもぼくが子どもの頃には、日本の物語の飛び出す絵本をいくつか見たような記憶があります。ここ数年中国に移行しつつあるそうですが、最近まで世界中の飛び出す絵本の印刷・加工を担っていたのは主にコロンビアの印刷会社でした。きっと熟練の工員さんが何十人も並んでモクモクと組み立ててるんですね。これはもちろん人件費の関係で、実は何十年か前にはその位置にある国は日本でした(以前、昭和30年代に図書印刷という出版社で、海外からの発注を仕切っていたという方にお会いしたことがあります。当時の肩書きは「ペーパーエンジニア」だったそうです!)。ぼくが見た日本の飛び出す絵本はその頃になごりだったのかもしれません。
 それでも、これだけ世界中で日本人が活躍・・・してるかどうか知らないけどとにかくいろんな所にいる今の世の中、日本人の発信するモノが欧米人にとってもそれほど的はずれになるとは思えません。日本発の飛び出す絵本が少ないもう一つの理由、それはズバリ、目指す人がいないからだそうです。良いモノさえできれば、それを世界に紹介するためのノウハウは決してないわけではないそうです。これは良いことを聞きました。10年前に聞いていたら人生が変わっていたかも。出版イコール世界同時発売なわけですからこれはやりがいのある仕事です。いつかそのうち・・・10年以内くらいに・・・試作作って持ち込みますから、その時はよろしくお願いします、大日本絵画さん。
 
 その前にからくりの新作っすね、わかってますわかってます。よーくわかってます。
     


2003.1.9 近所の古本屋ぽんぽん船さん、今年もよろしくお願いします。

 仕事場の3人ともわりと本を読む方で、おもしろかった本はみんなで回し読みをしています。いちおうデザイン事務所なので、本棚の「棚」の部分はデザイン本や資料用にとっておいて、小説の類は天井に積み重ねるようにしていたら、気がついたらずいぶん貯まってしまいました。時々何かの拍子に崩れ落ちてきてタイヘン危険です。去年の夏からは便所に小さな本棚を置いて処理しています(借りたい本があったらいつでも貸しますよ)が、そっちもそろそろあふれてきました。
 去年の図工室の一番人気は、横山秀夫というミステリー作家でした。春に古本屋で何気なく買った「動機」という本が非常に渋くて上手くて一発で気に入ってしまい、それ以来本屋で見つけるたびに迷わず買って、みんなに読め読めと勧めました。3人で微妙に好みは違うのですが、この作家はみんな気にいったようです。

 ・・・てなことを年末に考えてたら、恒例の「このミステリーがすごい」でこの人の「半落ち」が1位を取りました。ベストテンには入るだろうと思っていましたがまさか1位とは。自分が好きだった作家が日本全国大多数から評価されると、少しつまんないような気がしませんか。名前も題材も地味〜なので、もうしばらく一人で楽しみたかった、というのはもちろんワガママなのですが、それにしても「半落ち」はオチがちょっと弱かったような気がするなぁ。「顔」の方がおもしろかったよなぁ。それにしてもこんないぶし銀の作品が1位かぁ。

 ・・・てなことを年明けに考えてたら、昨日たまたま買ったアエラに、まったく同じようなことを書いた記事が出ていました。近年はスケールの大きなミステリーが減って特に去年は不作の年だった、そうです。時代の影響で小粒な作品がもてはやされる傾向にある、そうです。高村薫さん、もう一回ミステリー書いてください、だそうです。うーん、そうは言うけどみんながんばってるんだよなぁ。自分の考えてたのと同じようなことがいざ活字になっているのを見ると、なんだかつまんないような気がしました。

 結局誰が何言ってもダメなんじゃん・・・という自分のヘソマガリぶりを自覚させられた、落ちのない話でした。ともあれ、今年もおもしろい本が読めますように。
    

 
2003.1.5 吉田 vs 佐竹の試合はあんまりじゃないかい?と思ってるうちに年が明けた。

 謹賀新年です。予想はしてたことですが、暮れの28日からきっちり休んで連日ボーっとしていたら無性に仕事が恋しくなって、予定より早く出勤してきてしまいました。ゆっくり休んで鋭気を養うなんてことはやはり僕にはできません。仕事中毒をきっちり自覚して、隙間をぬって飲みに釣り堀に読書、今年もこれでやっていきます。
 今年一発目のワークショップノートにあたって何か新年の抱負はないものかと無理やり考えていたら、今年で今の事務所を立ち上げて3年目になることに思い当たりました。飽きっぽい性格が災いしてか幸いしてか、大学を卒業以来、3年周期で公私ともに大きな転機が訪れています。今の仕事はまだまだ飽きちゃいませんが、仕事の流れにもだんだん慣れてはきたことだし、そろそろ何か起きても良さそうな頃かなぁと。何が起きるか楽しみです。さーて、がんばりましょう。

 年末に京都へ行ってきました。清水寺の帰り道、四条河原町で晩飯食う店を探していたら、期せずしてスタディルームというお店にぶち当たりました。BRHの二重らせんと昆虫ポストカードを扱っていただいているはずのお店です。ドキドキしながらのぞいて見ると、奧の方にちゃんと完成品が飾ってありました。たいへん赤面しました。二重らせんが少しよれていたのでこっそり直して帰ってきました。
  

2002年のWORKSHOP NOTE